| 開始日時 | 2024/03/15 10:35:00 | 終了日時 | 2024/03/15 13:38:26 |
| 水平距離 | 5.13km | 沿面距離 | 5.19km |
| 経過時間 | 3時間03分26秒 | 移動時間 | 1時間58分58秒 |
| 全体平均速度 | 1.70km/h | 移動平均速度 | 2.59km/h |
| 最高速度 | 5.57km/h | 昇降量合計 | 208m |
| 総上昇量 | 104m | 総下降量 | 104m |
| 最高高度 | 139m | 最低高度 | 84m |
| 地点名 | 通過時刻 移動時間 | 積算距離 区間距離 | 平均速度 | 標高 獲得標高 | 平均勾配 |
|---|---|---|---|---|---|
| START | 10:35:00 | 0.00km | 88m | ||
| 01:58:58 | 5.19km | 2.6km/h | ↑104m ↓104m | 0.00% | |
| GOAL | 13:38:26 | 5.19km | 89m |
【コース】
近鉄飛鳥駅 ⇒ 岩屋山古墳 ⇒ 益田岩船 ⇒ 白橿近隣公園(昼食休憩) ⇒ 牽牛子塚古墳 ⇒ 許世都比古命神社 ⇒ 近鉄飛鳥駅
( 5.2km 13,700歩 )
2023/03/15 10:35:00
2023/03/15 10:37:32
岩屋山古墳 (ウィキペディア) 【 墳丘 】 1辺約45メートル前後、高さは12メートルの規模で2段に築成されていたのが明らかにされた。 【 石室 】 石室の用材にすべて花崗岩を使用した両袖式の横穴式石室で、内面には精巧な切石加工がほどこされている。 玄室の壁面は2段積みで奥壁は上下各1枚、側壁は上段2枚、下段3枚の切石からなり、各壁とも上段は内側へ傾いた構造である。 天井石は大きな一枚岩からなる。 羨道の側壁は奥半分は1段であるが、前半は2段積みとなっている。玄室の長さ4.9メートル、幅2.7m、高さ3m、羨道の長さ12m、幅1.9mを測る。 奈良県から南河内にかけての地域には、本古墳の石室と平面・立面の規格が同一である古墳、あるいは同一の仕様で規模を縮小した古墳が複数存在する。 奈良県桜井市ムネサカ第1号墳の横穴式石室は本古墳の石室と同形同大で、また同県橿原市の小谷古墳、同県天理市の峯塚古墳は本古墳の石室の規格を 一部縮小したものである。 さらに大阪府叡福寺北古墳(伝聖徳太子墓)の石室も現在調査不可能であるが、古記録によればこれらと同じ形式に属するとされる。 【 築造時期と被葬者 】 岩屋山式に属する小谷古墳の家形石棺の型式および岩屋山式の前後の時期に属すると考えられる横穴式石室出土須恵器の編年などから岩屋山古墳および岩屋山式の 横穴式石室の古墳の築造時期を7世紀中葉前後から7世紀第3四半期と推定している。 また、の被葬者としては667年(天智6年)に越智岡上陵に葬られたとされる斉明天皇の可能性があることを指摘している。 一方、岩屋山式とされる前記の大阪府叡福寺北古墳(西暦621年または622年に死没した聖徳太子の墓とされている)、および同じ河内地方にあって、 同じく岩屋山式とされる塚穴古墳(西暦603年に死没した来目皇子の墓とされている)の被葬者の没年から、これらの古墳の造営年代を7世紀第3四半期まで下げる のは無理と考え、岩屋山式の造営年代を7世紀第1四半期に引き上げる説も提唱されている。 【 国の史跡 】 岩屋山古墳 - 1968年(昭和43年)5月11日指定
2023/03/15 11:16:27
[ イチヤクソウ(一薬草)は東京都では絶滅危惧種に、また奈良県と鹿児島県では準絶滅危惧種に指定されています。 ↑↑ ]
益田岩船 (ウィキペディア) 【 形状 】 橿原ニュータウン白橿南小学校の西の丘陵(岩船山)頂上付近の斜面にある。 東西約11m、南北約8m、高さ約4.7mの台形状の硬質の石英閃緑岩で、東西の側面はほぼ垂直に切り立っている。 上部から側面にかけて幅1.6mの溝が東西に掘られている。この溝に1辺1.6m深さ1.3mの方形の穴が、1.4mの間隔を開けて二つくり抜かれている。 岩の重さは約160tから500~600tなど諸説あり、かつては他から運ばれて来たという説もあったが、現在では最初から今の場所にあったと考えられている。 また、下部には深さ10cmほどの格子状の溝が彫られているが、これは表面を平らにするための加工法が途中までされたものと見られる 【 建造時期・用途 】 1.石碑の台石説 2.占星術用の観測台説 3.物見台説 4.横口式石槨説 現在有力視されている説。南東500mほどの場所にある牽牛子塚古墳は横口式石槨であるが、岩船の穴の形状もこれと似ているため、 同じように古墳として造られ、完成時には現在の北壁面を下に横転させ古墳石室とする予定だった。 また東側の穴と違い、西側の穴には水が溜まらないことから、後者にはひびが入っていることが分かっている。 このため、建造途中で破損が判明し、放棄したのではないかとの説がある。 岩船は北壁面が端から格子状に彫られ縦溝が30条、横溝が7条あり、幅の平均的なこの線彫りは荒削りで整形途中で放棄されたと見ることができる。 猪熊兼勝は、益田岩船は兵庫県高砂市の石の宝殿に酷似し、この2つの石造物と同様な構造をもつ完成品は、牽牛子塚古墳石室しかないので、 牽牛子塚古墳石室の完成までに益田岩船、石の宝殿で二度の失敗を繰り返した後、軟質の凝灰岩の石室で完成させたものが、牽牛子塚古墳であるという説を 提唱している
2023/03/15 12:11:50
橿原市立「白橿南小学校」のそばにある公園です。公園面積は24,295平方メートル
白橿町の地域は『古事記』に「神武天皇の即位した畝傍山の東南、白橿(檮)原」と書き残されている。
団地開発に伴って造られたこの公園は起伏に富んだ地形を活かした公園です。
公園内には沼山古墳があります。また近くに「益田岩船」があります。
近道は私有地なれど無断で牽牛子塚古墳へ(助かりました!)
牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)(ウィキペディア)
奈良県高市郡明日香村大字越にある古墳。形状は八角墳。国の史跡に指定され、出土品は国の重要文化財に指定されている。
指定時には「あさがおつかこふん」の読みが付されており、「牽牛子」はアサガオの別称である。「御前塚」と呼称されることもある。
2009年9月(平成21年)から2010年9月(平成22年)にかけての発掘調査によって、八角墳であることが判明し、飛鳥時代の女帝で天智天皇・天武天皇の母とされる第37代斉明天皇(第35代皇極天皇)の陵である可能性が高まっている。
2022年2月に完全復旧が終了した。
【 外観・規模 】
墳丘は地震により崩落していたが、高さ約4.5mと推定され、版築による三段築成の八角墳であることが判明し、墳丘の裾は平面八角形状に削られており、対辺の長さは約22mにおよぶことを確認した。墳丘周囲では外側を八角形にかこむ石敷遺構が確認されており、北西の裾からは三辺分の石敷を検出している。うち一辺(約9m)はほぼ完全なかたちで遺存しており、幅は約1mでブロック状の切り石が3列にすき間なく敷き詰められていた。石敷遺構そのものも、正八角形になるよう途中で約135度の角度で屈曲しており、上空から鳥瞰した場合、共通の中心をもち大きさの異なる、墳丘部分3段、平地の石敷部分3列の相似八角形が重なるかたちとなる。石敷の外側には、さらに砂利が敷き詰められ、その部分も含めると全体では32mほどの規模になると推定される。
【 内部構造 】
内部施設は、南にむけて横穴が開口するかたちの横口式石槨であり、2009年段階ではすでに一部露出していた。横口式石槨は、約80トンの重量をもつ1個の巨大な凝灰角礫岩をくりぬいて、約70トンの埋葬施設をつくったもので、巨石は約15km離れた二上山西麓より運搬したものと考えられる。石槨の幅は5m、奥行き3.5m、高さ2.5mの規模を有し、石槨内は中央部に幅44.7cm、長さ152.5cmの仕切り壁によって東西2つの空間に仕切られた合葬墳であることが判明した。刳りぬき部分の規模は、幅1.41m、高さ1.01m、長さ0.63mである。また、巨石の外側を取り囲むように丁寧な加工の施された直方体(縦2.7m、横1.2m、厚0.7m)をなす巨大なデイサイト製の切り石を3点確認し、本来的には16点整然とならんでいたであろうことも確認している。
石槨内の中央には間仕切りのための壁をともない、その両側に長さ約2mの墓室が2つあって、壁面は二重の漆喰が塗られている。左右両室ともに天井は丸みをおびており、高さはともに約1.3mである。また、左室は長さ2.1m、幅1.14m、右室は長さ2.08m、幅1.16mでほぼ同規模である。床面には長さ約1.95m、幅約0.78m、高さ0.08mの棺台(棺床)が削り出しによってつくられており、これも左右両室とも同一規模である。閉塞石は内扉と外扉より成っていて、内扉は凝灰岩製で高さ約1.12m、厚さ約0.62m、幅約1.47mであるのに対し、外扉は安山岩系の石材を用い、高さ約2.4m、厚さ約0.63m、幅約2.69mの大きさであった。また、内側の扉の四隅からは方形の孔を確認しており、扉飾金具が装填されていたことが推定される。
【 出土遺物 】
以前の調査や採集によって、すでに夾紵棺(きょうちょかん)の破片や金銅製の棺金具(七宝亀甲形座金具、八花文座金具、六花文環座金具、円形座金具、綾隅金具)、また鉄製の鎹(カスガイ)、鉄製の釘、ガラス玉などの玉類、人骨(臼歯)などの遺物が出土している。「夾紵棺」とは麻布を漆で何重にも貼り重ねてつくった当時としては最高級の棺であり、貴人の葬送に用いられたことは疑いない。臼歯は間人皇女のものとの説がある。
1953年(昭和28年)11月14日、遺物は考古資料として極めて重要であるとして、一括して「大和国高市郡牽牛子塚古墳出土品」として国の重要文化財に指定され、指定分は奈良県立橿原考古学研究所附属博物館に保管されている。
【 被葬者 】
斉明天皇の夫舒明天皇の陵墓(段ノ塚古墳)、子の天智天皇の陵墓(御廟野古墳)および天武天皇の陵墓(野口王墓、持統天皇との合葬墳)がいずれも八角墳であり、今回の精査によって、本古墳もまた当時の皇族の陵墓に特徴的な八角墳であることが確認された。また、本古墳が築造当初より合葬が明確に計画されていたことは調査成果によっていっそう明らかになった。さらに、加工石をこれほどふんだんに用いた古墳は他に類例がなく、古墳自体が巨大な石造記念物であることも明らかとなった。以前より知られていた夾紵棺や臼歯の存在、また『日本書紀』における斉明天皇・間人皇女合葬の記述とあわせて、本古墳が斉明天皇陵である可能性はさらに高まった。
いっぽう宮内庁は、本古墳から西南西の方向へ2.5km離れた、奈良県高市郡高取町大字車木に所在する車木ケンノウ古墳を斉明天皇陵として治定してきたため、おおかたの研究者との見解とのあいだに齟齬が生じている。そのため、真の継体天皇陵として有力視される今城塚古墳(大阪府高槻市)や真の文武天皇陵として有力視される八角墳中尾山古墳(奈良県明日香村平田字中尾山)などと同様、従来の陵墓の治定を見直す必要があるのではないかという議論が起こっている。しかし、宮内庁書陵部では斉明天皇陵「越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)」の候補地として牽牛子塚古墳が有力であるとする説があることを認めながらも、墓誌など確実なものが発見されない限りは陵墓治定を見直す必要はないとしている。
【 隣接する古墳の発見 】
2010年12月9日、明日香村教育委員会は牽牛子塚古墳隣接地より古墳を検出したことを発表した。牽牛子塚古墳が斉明天皇の陵墓であるならば、新発見の越塚御門古墳は、斉明陵墓の前に孫の大田皇女を葬ったという『日本書紀』の記載より、大田皇女の墓である可能性が高い。
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(↑ netから転載)
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許世都比古命神社 【 所在地 】 奈良県高市郡明日香村越555(越と真弓の境に鎮座) 【 御祭神 】 主祭神 許世都比古命(こせつひこのみこと) 末社祭神 多賀大神(たがおおかみ 多賀大神宮 豊受大神(とようけおおかみ) 豊受大神宮 大物主命(おおものぬしのみこと) 三輪大明神 天児屋根命(あめのこやねのみこと)春日大明神 天照大神(あまてらすおおみかみ) 天照皇太神 品陀別命 (ほんだわけのみこと) 八幡大菩薩 【 由緒 】 「延喜式」神名帳の高市 郡「許世都比古命神社」に比定される。「大和志」に「在越村、今称五老神」とみえ、境内の文化一〇年(一八一三) の石碑によると、 巨勢小柄宿禰の霊を祀り、巨勢氏の祖武内宿禰の第五子にあたるので五郎社とも称するとあり、その子孫が後に葛上郡の古瀬(現奈良県御所市)に移ったと記す。 しかし小柄宿禰は第二子であり(古事記)、五郎はおそらく御霊の転訛と思われる。南方の於美阿志神社も御霊大明神と称していた。御霊信仰の影響であろう。 享和年間、この地の服部氏が人首蛇身の造形を奉納し、弁才天の御神体としたと伝えられている。 境内には八つの灯篭が並び、それぞれに、社名・神名が記されていた。 大峯山大権現・春日大明神・八幡大菩薩・豊受太神宮・天照皇太神宮・三輪太神宮・多賀太神宮・富士大権現
2024/03/15 13:38:11