| 開始日時 | 2024/07/03 10:50:03 | 終了日時 | 2024/07/03 12:47:15 |
| 水平距離 | 3.06km | 沿面距離 | 3.06km |
| 経過時間 | 1時間57分12秒 | 移動時間 | 1時間06分40秒 |
| 全体平均速度 | 1.57km/h | 移動平均速度 | 2.74km/h |
| 最高速度 | 4.53km/h | 昇降量合計 | 42m |
| 総上昇量 | 18m | 総下降量 | 24m |
| 最高高度 | 75m | 最低高度 | 61m |
| 地点名 | 通過時刻 移動時間 | 積算距離 区間距離 | 平均速度 | 標高 獲得標高 | 平均勾配 |
|---|---|---|---|---|---|
| START | 10:50:03 | 0.00km | 68m | ||
| 01:06:40 | 3.06km | 2.7km/h | ↑18m ↓24m | -0.20% | |
| GOAL | 12:47:15 | 3.06km | 63m |
【コース】
鞍馬口駅 ⇒ 小野篁卿墓・紫式部墓所 ⇒ 玄武神社 ⇒ 赤穂義士四十六士遺髪塔跡 ⇒ 本法寺 ⇒ 堀川今出川バス停 ⇒(バス) 京都駅
2023/07/03 10:49:12
『小野篁と閻魔大王』 小野篁は閻魔大王が任命した、あの世の冥官であり、地獄行などの判決の助言をしていた裁判官です。 大王との出会いは812年、彼が11歳の夏でした。帝の庭園であり、立入禁止の「神泉苑」で魚釣りをしたため、 池の主の龍が怒って小野篁を底深い地獄へ引きずり込みます。 そこで出会ったのが閻魔大王でした。小野篁は大王に「干ばつで苦しむ庶民を助けるために、わざと龍を怒ら せて雨を降らせたのだ」と釈明します。小野篁の賢明さに感心した大王は、彼を地獄から助け出します。 丁度このとき、200年もの間、地獄の冥官をしていた僧が、交代を申し出ていたので、大王は小野篁が成人した 後、暝官の任務を任せたのでした。 彼は閻魔大王からお呼びがあると、夜中に六道珍皇寺の「冥土通いの井戸」から冥土の世へ出向き、朝方に 嵯峨野にある福成寺の「黄泉がえりの井戸」から現世に戻って宮中に出仕したと言われています。 この「黄泉がえりの井戸」が2011年の調査で、六道珍皇寺の旧境内から発見されたため、どちらの井戸も 六道珍皇寺にあったことになります。 小野妹子の子孫であり、小野小町の祖父にあたるとも言われています。平安時代初期に実在した有能な官僚で、 百人一首や古今和歌集にも彼の和歌が残されています。 『紫式部と小野篁のつながり』 紫式部と小野篁は平安時代の人ですが、両者には約200年近い時の隔たりがあります。 なぜ2人の墓が並んで同じ場所にあるのでしょうか? 源氏物語は架空の創作物語でありますが、好色を描きすぎて、紫式部は地獄へ落ちたという話が「源氏供養」と いう能の演目にある。地獄に落ちた紫式部を助け出すために、小野篁は六道珍皇寺に向かい、冥土通いの井戸か ら地獄へ降りて行きます。そして、閻魔大王に彼女を地獄から出してくれるよう、お願いします。助け出した後、 自分の墓の隣に埋葬したのではないかと言われています。 あるいは、地獄に落ちた紫式部を哀れむ多くの読者が、小野篁に彼女を助け出してほしいと、彼の墓を紫式部の 墓の横に移したという説もあります。
瑞光院は,慶長16年(1611)に歿した浅野長政の別荘を,山崎家盛が寺院としたもの。臨済宗大徳寺派。後に赤穂城主・浅野長矩(内匠頭)が夫人の縁故で壇家となった。長矩の切腹後にはその供養塔をつくり,元禄15年(1702)の浪士討入の後も、大石良雄をはじめとする四十六士の遺髪を埋葬した塔をもうけて供養した。昭和37年(1962)に山科区安朱へ移転。遺髪塔も遷された。この石標は,赤穂浪士の遺髪塔があった瑞光院の跡を示すものである。
【沿革】 叡昌山本法寺は、室町時代に活躍した日蓮宗僧侶、久遠成院日親上人(1407-88)によって築かれた日蓮宗の本山です。 永享八年(1436)に東洞院綾小路で造られた「弘通所」が始まりとされています。その後、永享十二年(1440)に、日親上人の幕府諫暁が原因で破却され、康正年間(1455 -1457)に四条高倉で再建しました。寛正元年(1460)、2度目の破却に遭った本法寺は、三条万里小路に移転して復興を果たすと、日親上人はこの寺を一門の中心地に定 めています。その後、本法寺は隆盛し多くの僧侶たちが棲むところとなり繁栄しましたが、天文五年(1536)の法難によって一時は都を追われ、大坂堺に避難する事とな りました。後に一条戻橋付近で再興し、さらに天正十五年(1587)、豊臣秀吉の聚楽第建設に伴う都市整備の影響で、堀川寺之内へ移転して今日に至っています。 現在地に移転したときの貫首日通上人は、外護者であった本阿弥光二・光悦親子の支援を受けて堂塔伽藍を整備し、本法寺は京都の町に一大栄華を誇るまでに及びまし た。しかし、天明八年(1788)に襲った大火は本法寺の伽藍をのみ込み、経蔵と宝蔵を残すだけとなりました。その後、檀信徒達の堂塔再建に対する願いは着々と結実さ れ、本堂・開山堂・多宝塔・書院・仁王門などが整備され、今の本法寺となりました。 〇本阿弥光悦と巴の庭 本阿弥光悦(1558-1637)は、安土桃山時代から江戸時代にかけて活躍した芸術家で、その才能は多岐にわたり書・絵画・陶芸・漆芸などに優れた作品をのこしています。 本阿弥家は元来刀剣の鑑定や研磨を生業とする家柄で、足利幕府に仕えていました。光悦の曾祖父である本阿弥本光(清信)が、刀剣の鞘走が原因で足利幕府六代将軍 義教の怒りに触れ、投獄された際に獄中で日親上人と出会い、教化されて熱心な法華信者になります。 爾来、本阿弥家は本法寺を菩提寺として支え、豊臣秀吉の命によって現在地へ移転を強いられた際に、光悦は父親の光二と私財を投じ伽藍の整備に力を尽くしました。 また、これにあわせて光悦によって造られたとされる「巴の庭」は、室町時代の書院風枯山水の影響と安土桃山時代の芽生えを感じる名庭です。昭和47年に修復され、 昭和61年に国指定名勝となりました。「巴の庭」は書院の東側から南へ曲がる鍵形で、広さはおよそ200坪におよびます。三箇所の築山で巴紋を表現することから 「三巴の庭」と呼ばれますが、巴の形は経年により解りづらくなっています。また、東南隅に石組の枯瀧が配され縦縞紋様の青石によって流れ落ちる水を表現してい ます。いっぽう書院の縁側前には、半円を2つ組み合わせた円形石と、切石による十角形の蓮池が配置され、「日」「蓮」を表現しています。 〇長谷川等伯と佛涅槃図 長谷川等伯(1539-1610)も本法寺に縁の深い芸術家として知られています。等伯は能登国・現在の石川県七尾で生まれ、染色を生業とする長谷川家の養子となり、 故郷の七尾を中心に絵師として活動していました。その後、養父母の死をきっかけに拠点を京都へと移し、生家の菩提寺の伝手で本法寺塔頭の教行院に住み、制作に 取り組んでいきました。 等伯が京都で活動をはじめたころの作品に、当時の本法寺貫首の肖像画『日堯上人像』(重文)があり、本法寺に所蔵されています。この作品は34歳の時のもので、 「長谷川信春」の署名があり、等伯と信春が同一人物であることを裏付ける貴重な資料として知られています。その後、30代後半から40代の作品はのこされず、 活動が明らかになるのは50代になってからです。 天正17年(1589)、51歳の等伯は大徳寺の三門楼上壁画と三玄院障壁画を描き、都で名の知れた絵師となります。翌年には御所の障壁画制作を依頼されるまでになりま したが、当時の画壇に君臨する狩野派の妨害によって、苦汁を飲まされる結果となりました。しかし、その後は豊臣秀吉から祥雲寺障壁画の制作を依頼されるなど、 画壇における地位を確固たるものにします。こうしてみると、等伯にとって充実した活動時期のようですが、背景には彼を取り巻く人たちとの死別が、大きな影響を 及ぼしています。等伯が52歳の時、親交が深かった千利休が秀吉の命によって自刃し、さらに55歳の時には、制作の片腕として一番の信頼を寄せていた息子の久蔵を 26歳という若さで失い、深い悲しみに見舞われました。そのような中で『松林図屏風』(国宝・東京国立博物館)など水墨画の優れた作品が描かれており、心の内を墨 の濃淡で表現しているようです。 その後、60代になると大作を次々と手がけ、そのひとつに本法寺の『佛涅槃図』(重文)があります。 この作品は京都三大涅槃図のひとつに数えられ、描表具を含めると縦10m・横6mにも及ぶ大幅で、表具の裏には日蓮聖人以下の諸師や本法寺歴代住職、祖父母・養父 母・子息久蔵などの供養銘が記されています。画面の中で嘆き悲しむ弟子や動物たちが描かれ、自分をのこして先立った人々への哀悼と供養の想いが伝わってきます。 また、自身と縁の深い本法寺関係者の肖像画『日通上人像』(重文)・『妙法尼像』(重文)などをのこし、高い評価をうけています。 さらに、本堂の天井画や客殿の障壁画を描きましたが、天明8年(1788)に京都を襲った大火によって焼失してしまいました。しかし、幸いにも経蔵と宝蔵がのこり、 『佛涅槃図』をはじめとする等伯の作品が奇跡的に焼失をまぬがれ、今日にまで本法寺に格護され続けています。
【由 緒】 当寺は、京都上京区の堀川通り寺の内を少し北に上がったところにございます。 臨済宗の尼門跡寺院で山号は広徳山。ご本尊は釈迦如来様、古よりは、薄雲御所又は烏丸御所、竹之御所と呼ばれてまいりました。 建立は1428年にさかのぼり、足利義満の子息足利義持(足利4代将軍)の正室日野栄子(慈受院浄賢竹庭尼大禅師)が、亡夫の遺言により、天皇家の菩提を弔うため建立したと伝え られています。 その後、宮家、摂関家から代々住持し後西天皇の皇女瑞光内親王、伏見宮息女らも入寺した由緒ある比丘尼御所として法灯を灯し続けてまいりました。 慈受院の旧地は、王朝貴族の代表的人物で栄華を誇り、源氏物語の主人公の一人と言われる藤原道長が建立した法成寺の跡地でした。このお寺は極楽浄土をこの世に再現したとい われ、藤原道長の故地であることから源氏物語のゆかりの地と遺っています。また『源氏物語』第十九帖「薄雲」では、光源氏が亡くなった藤壷中宮への哀悼として 「入日さす 峰にたなびく 薄雲は もの思ふ袖に 色やまがへる」と歌われています。