| 開始日時 | 2024/10/02 14:52:46 | 終了日時 | 2024/10/02 17:34:16 |
| 水平距離 | 3.48km | 沿面距離 | 3.76km |
| 経過時間 | 2時間41分30秒 | 移動時間 | 1時間34分00秒 |
| 全体平均速度 | 1.40km/h | 移動平均速度 | 2.15km/h |
| 最高速度 | 3.92km/h | 昇降量合計 | 157m |
| 総上昇量 | 75m | 総下降量 | 82m |
| 最高高度 | 146m | 最低高度 | 111m |
【コース】
近鉄尼ケ辻駅 ⇒ 垂仁天皇陵(宝来山古墳)・多遅摩毛理命御塚 ⇒ 西方院 ⇒
唐招提寺 ⇒ 仲よし公園 ⇒ 近鉄尼ケ辻駅 (3.8km 8,300歩)
即位7年、天皇は出雲国造家の野見宿禰を召喚した。当麻村に当麻蹴速という強者がいたからである。 当麻蹴速は「自分より強いものはいないのか、全力で力比べできる相手はいないものか」と吹聴していた。 そこで野見宿禰を当麻蹴速と戦わせたところ、互いに蹴り合った末に野見宿禰が当麻蹴速の腰を踏み折って勝った。 これが相撲節会の起源だとされる。 天皇は当麻蹴速が持っていた大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を野見宿禰に与えた。 即位32年、皇后の日葉酢媛命が亡くなった。少し前の即位28年に亡くなった倭彦命の葬儀で近習者を集めて殉死させた有様が あまりに惨たらしかったため、天皇は殉死の風習に代わるものを考えていた。 そこに野見宿禰が進み出て出雲国から100人の土部(はじべ)を呼び寄せることにした。 野見宿禰たちは人や馬の形をした焼き物を作り殉死者の代わりとしてはどうかと提案した。これが埴輪の起源だとされる。 天皇はこれを称えて野見宿禰に土師臣(はじのおみ)の姓を与えた。 『古事記』には「石祝(棺か)作りを定め、土師部を定めたまいき」とある。
【 多遅摩毛理命御塚 】 『日本書紀』『古事記』では田道間守の墓に関する記載はないが、『釈日本紀』巻10(述義6)所引の『天書』では景行天皇が田道間守の 忠を哀しんで垂仁天皇陵近くに葬ったとしている。現在、垂仁天皇陵(菅原伏見東陵)に治定される宝来山古墳(奈良県奈良市)では 墳丘南東の周濠内に小島があるが、これが田道間守の墓に仮託され、湟内陪冢の「伝田道間守墓」として治定されている。 この小島の考古学的な調査は行われていないが、江戸時代の山陵絵図や明治の『御陵図』に島の存在が描かれていないため、 明治期の周濠拡張に伴う外堤削平の際に残された外堤の一部と推測されている。『廟陵記』などで周濠南側に「橘諸兄公ノ塚」の 記載があることから、その塚を前提として小島が残されたとする説もある。後述する田道間守の菓祖神としての信仰により、現在は 小島の対岸に拝所も設けられている。 『日本書紀』垂仁天皇紀によれば、垂仁天皇90年2月1日に田道間守は天皇の命により「非時香菓(ときじくのかくのみ)」 すなわちタチバナ(橘)を求めに常世の国に派遣された。 しかし垂仁天皇99年7月1日に天皇は崩御する。 翌年(景行天皇元年)3月12日、田道間守は非時香菓八竿八縵(やほこやかげ:竿・縵は助数詞で、葉をとった8枝・葉のついた8枝の意味)を 持って常世国から帰ってきたが、天皇がすでに崩御したことを聞き、嘆き悲しんで天皇の陵で自殺したという。 『古事記』垂仁天皇段によれば、多遅摩毛理は「登岐士玖能迦玖能木実(ときじくのかくのこのみ)」(同じく橘)を 求めに常世国に遣わされた。 多遅摩毛理は常世国に着くとその実を取り、縵八縵・矛八矛を持って帰ってきた。 しかしその間に天皇は崩御していたため、縵四縵・矛四矛を分けて大后に献上し、もう縵四縵・矛四矛を天皇の陵の入り口に供え置いて 泣き叫んだが、その末に遂に死んだという。 (Wikipediaより)
例年の開花は秋の彼岸の中日頃であるが、今年は酷暑の影響で半月遅れた。
崩れかけて支えをしていた土塀が
直されて新しくなっていた。
『続日本紀』等によれば、唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)、新田部親王(天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷から譲り受け、 寺としたものである。寺名は当初は「唐律招提」と称した。後に官額を賜ってから「唐招提寺」と称するようになった。 唐招提寺の寺地は平城京の右京五条二坊に位置した新田部親王邸跡地で、広さは4町であった(創建期伽藍は東西255メートル、南北245メートル)。 境内の発掘調査の結果、新田部親王邸と思われる前身建物跡が検出されている。 また、境内から出土した古瓦の内、単純な幾何学文の瓦(重圏文軒丸瓦と重弧文軒平瓦の組み合わせ)は、新田部親王邸のものと推定されている。 寺内に現存する2棟の校倉造倉庫のうち、経蔵は新田部親王宅の倉庫を切妻造から寄棟造に改造したものとされている。 『招提寺建立縁起』に、寺内の建物の名称とそれらの建物は誰の造営によるものであるかが記されている。 それによると、奈良時代の唐招提寺には、南大門、西南門、北土門、中門、金堂、経楼、鐘楼、講堂、八角堂3基、食堂、羂索堂、僧房、小子房、 温湯室、倉などがあった。このうち、南大門、西南門、北土門、中門、金堂は鑑真の弟子でともに来日した如宝の造営、講堂は、平城宮の 東朝集殿を移築したもの、食堂は藤原仲麻呂家の施入(寄進)、羂索堂は藤原清河家の施入であった。 藤原清河は、鑑真が渡日した際の遣唐使の大使であったが、鑑真の乗った第二船と異なり、清河の乗った第一船は遭難して唐へ戻され 彼は唐の地で没した。「藤原清河家の施入」とは、清河の家の建物を移築した、もしくは清河の家族が建築費を負担した、の意に解されている。 これらの建物のうち、もっとも早く鑑真の在世中に建立されたものは講堂であった。金堂の建立年代には諸説あったが、部材の年輪年代測定の 結果、781年に伐採された材木が使用されていることがわかり、鑑真没後の8世紀末の建立であることが確実視されている。 『招提千歳伝記』によれば、唐招提寺の歴代住持は鑑真、法載、義静、如宝、豊安の順となっているが、このうち第4代の如宝の時代に金堂を 含む伽藍の主要部が建立されたとみられる。また、鎮守社として境内の東に水鏡天神社も建立された。
秋篠川は、奈良市内の大渕池を源流に大和郡山市へと流れ、佐保川に合流します。
奈良時代には平城京への物資の輸送路として、南北に直線に付け替えが行われ、「西の堀河」とも呼ばれていました。
このあたりは昼食休憩の場所として、よく利用する。