| 開始日時 | 2025/06/02 10:20:32 | 終了日時 | 2025/06/02 11:22:25 |
| 水平距離 | 2.48km | 沿面距離 | 2.79km |
| 経過時間 | 1時間01分53秒 | 移動時間 | 0時間49分50秒 |
| 全体平均速度 | 2.70km/h | 移動平均速度 | 3.23km/h |
| 最高速度 | 13.52km/h | 昇降量合計 | 475m |
| 総上昇量 | 230m | 総下降量 | 245m |
| 最高高度 | 122m | 最低高度 | 87m |
| 地点名 | 通過時刻 移動時間 | 積算距離 区間距離 | 平均速度 | 標高 獲得標高 | 平均勾配 |
|---|---|---|---|---|---|
| START | 10:20:32 | 0.00km | 121m | ||
| 00:49:50 | 2.79km | 3.2km/h | ↑230m ↓245m | -0.61% | |
| GOAL | 11:22:25 | 2.79km | 106m |
【コース】
久しぶりに(半年以上になるか)西ノ京を歩く
数年前は西大寺駅から往復徒歩 そして奈良公園と 交互に毎週歩いていた
足腰弱ってきて このところ外出が減った
尼ケ辻駅 ⇒ 垂仁天皇陵 ⇒ 西方院 ⇒ 唐招提寺 ⇒ 薬師寺 ⇒ 西ノ京駅 ( 6,700歩 )
2025/06/02 10:20:42
2025/06/02 10:30:54
アオイ科の多年草。属名Althaeaはギリシア語由来の古典ラテン語に由来し、語源たるギリシア語「althaia」は「althaino」(治療)と関連している。古来、タチアオイは薬草として用いられていた。
『日本書紀』では「田道間守」、『古事記』では「多遅摩毛理」「多遅麻毛理」と表記される。
『日本書紀』垂仁天皇紀によれば、垂仁天皇90年2月1日に田道間守は天皇の命により「非時香菓」
すなわちタチバナ(橘)を求めに常世の国に派遣された。しかし垂仁天皇99年7月1日に天皇は崩御する。
翌年(景行天皇元年)3月12日、田道間守は非時香菓八竿八縵(やほこやかげ:竿・縵は助数詞で、葉をとった8枝・葉の
ついた8枝の意味)を持って常世国から帰ってきたが、天皇がすでに崩御したことを聞き、嘆き悲しんで天皇の陵で自殺した。
2025/06/02 10:39:08
第11代天皇(在位:垂仁天皇元年1月2日 - 垂仁天皇99年7月1日)。
【非時香菓(ときじくのかくのみ)】 垂仁天皇は晩年の即位90年、田道間守を常世国へ遣わして非時香菓を探させた。 常世国にたどり着いた田道間守は非時香菓が沢山成っているのを見つけた。そこで実を持ち帰ったのだが既に天皇は亡くなっていた。 帰れるとは思えないほどの困難な旅を成し遂げたはずの田道間守は、しかし天皇の元に実を持ち帰ると言う目的を果たせなかった。 悲観した田道間守は陵のそばで自殺した。 この実は今の橘であると『日本書紀』に書かれているが諸説ある。 『古事記』では大后・比婆須比売命(日葉酢媛命)が非時香菓の半分を受け取ったとされる。
鎌倉時代の1245年ごろ、唐招提寺中興の祖・覚盛や西大寺中興の祖で真言律宗開祖・叡尊ら共に戒律を学んだ有厳(慈禅)によって創建された唐招提寺の塔頭で、唐招提寺奥之院とも呼ばれる大和北部八十八ヶ所霊場第27番札所。
ご本尊は、快慶晩年の作で檜割矧造の阿弥陀如来立像。左足の臍に「法眼快慶」銘がある晩年の傑作で、過去に何度も盗難に遭い、光背を失っているが、国指定重要文化財で、収蔵庫に安置され、観光化されていないお寺でもあるため、拝観には予約が必要。
境内に立つ鎌倉時代の五輪塔は、1969年の解体調査で発見された舎利筒の銘から覚盛の弟弟子で覚盛の後を継いだ中興二世・証玄和尚の墓である。
当院は、もともと唐招提寺の境内にあったが、大正時代に旧大阪電気軌道畝傍線(現・近鉄橿原線)が当院と唐招提寺の間に開通したたため、唐招提寺の飛び地となっている。
(唐招提寺ホームページより) 唐招提寺は、南都六宗の一つである律宗の総本山です。 多くの苦難の末、来日をはたされた鑑真大和上は、東大寺で5年を過ごした後、新田部親王の旧宅地(現在の奈良市五条町)を下賜されて、 天平宝字3年(759)に戒律を学ぶ人たちのための修行の道場を開きました。 「唐律招提」と名付けられ鑑真和上の私寺として始まった当初は、講堂や新田部親王の旧宅を改造した経蔵、宝蔵などがあるだけでした。 金堂は8世紀後半、鑑真和上の弟子の一人であった如宝の尽力により、完成したといわれます。 現在では、奈良時代建立の金堂、講堂が天平の息吹を伝える、貴重な伽藍となっています。 【鑑真和上(688~763年)】 唐の揚州に生まれ、14歳で出家し、洛陽・長安で修行を積み、713年に故郷の大雲寺に戻り、江南第一の大師と称されました。 天宝元年(742)、第9次遣唐使船で唐を訪れていた留学僧・栄叡、普照から、朝廷の「伝戒の師」としての招請を受け、渡日を決意。 その後の12年間に5回の渡航を試みて失敗、次第に視力を失うこととなりましたが、天平勝宝5年(753)、6回目にして遂に日本の地を 踏まれました。 以後、76歳までの10年間のうち5年を東大寺で、残りの5年を唐招提寺で過ごされ、天皇を始めとする多くの人々に授戒をされました。
山号はなし。本尊は薬師三尊。南都七大寺の一つ。開基は天武天皇。 『日本書紀』天武天皇9年(680年)11月12日条には、天武天皇が後の持統天皇である鵜野讃良皇后の病気平癒を祈願して薬師寺の建立を発願し、 百僧を得度させたとある。薬師寺東塔の屋上にある相輪支柱に刻まれた「東塔察銘」(とうとうさつめい、「さつ」は木偏に「察」)にも同趣旨の記述がある。 しかし、天武天皇は寺の完成を見ずに朱鳥元年(686年)没し、伽藍整備は持統天皇、文武天皇の代に引き継がれた。 『白鳳伽藍の再建』 1967年(昭和42年)、副住職高田好胤が管主に就任すると、翌1968年(昭和43年)から百万巻お写経勧進による白鳳伽藍復興事業が開始された。 これにより、1976年(昭和51年)に金堂が再建されたのを始め、1981年(昭和56年)に西塔、1984年(昭和59年)に中門、1995年(平成7年)に 東西回廊の一部、2003年(平成15年)に大講堂、2017年(平成29年)には食堂が再建され、復興事業はほぼ最終段階を迎えた。(Wikipedia)
2025/06/02 11:15:32