| 開始日時 | 2025/08/31 09:51:09 | 終了日時 | 2025/08/31 19:21:09 |
| 水平距離 | 305.56km | 沿面距離 | 306.04km |
| 経過時間 | 9時間30分00秒 | 移動時間 | 6時間22分40秒 |
| 全体平均速度 | 32.21km/h | 移動平均速度 | 47.88km/h |
| 最高速度 | 125.54km/h | 昇降量合計 | 5885m |
| 総上昇量 | 2948m | 総下降量 | 2937m |
| 最高高度 | 423m | 最低高度 | 32m |
【コース】 娘の車に乗せてもらって
出発(9:15) ⇒ 名神高速 ⇒ 山陽自動車道 ⇒ 名塩SAで休憩(10:13) ⇒ 三木JCから 神戸淡路鳴門自動車道 ⇒
西淡三原JCから淳仁天皇淡路陵(11:29) ⇒ 道の駅 福良(11:46)・昼食 ⇒ ONOKOROワールドパーク(13:43) ⇒
伊弉諾神宮(14:03) ⇒ ジェラートの店「にいど」(14:26) ⇒ 淡路ハイウェイオアシス(15:11) ⇒ 阪神高速 ⇒
ならファミリー夕食(17:14) ⇒ 帰宅(19:23) ( 10時間10分 徒歩6,500歩 走行距離400km )
淳仁天皇は第47代天皇( 在位:758年9月7日〈天平宝字2年8月1日〉- 764年11月6日〈天平宝字8年10月9日〉 ) 漢風諡号は明治時代に付けられたもので、古文書では廃帝または淡路廃帝と呼ばれる。諱は大炊(おおい)で、これは大炊氏(蘇我氏系の御炊氏、あるいは大炊刑部) が養育したからであると考えられる。 【 経 歴 】 「人物」 天武天皇の皇子・舎人親王の七男として誕生する。母は当麻老の娘・当麻山背。だが、3歳で父が没したこともあって、天皇の孫でありながら官位を受けることもなく、 存在が注目されることもなかった。 756年に没した聖武天皇の遺言によって新田部親王の子の道祖王が立太子したが、天平勝宝9歳3月29日(757年4月22日)に孝謙天皇によって道祖王は廃され、 4日後の同年4月4日(4月26日)、光明皇后(藤原光明子)を後ろ盾にもつ藤原仲麻呂(後に恵美押勝に改名)の強い推挙により大炊王が立太子した。 大炊王は仲麻呂の進言に従って、仲麻呂の長男で故人の真従の未亡人である粟田諸姉を妻に迎え、また仲麻呂の私邸に住むなど、仲麻呂と深く結びついていた。 また、舎人親王の母である新田部皇女は天智天皇の娘であり、天智・天武の両天皇の血筋を引くことも仲麻呂に推された一因であったとする指摘もある。 「践祚」 天平宝字2年(758年)に孝謙天皇から譲位を受け践祚した。同時に孝謙天皇は、太上天皇(孝謙上皇)となった。 しかし践祚後も政治の実権はほとんど仲麻呂が握り、一族は恵美の2字を付け加えられるとともに仲麻呂は押勝を名乗り、専横が目立つようになる。755年に唐で安禄山の乱が 発生した際には九州の警備強化にあたるが、仲麻呂が新羅討伐を強行しようとしこれを許可する(ただし後の称徳天皇=孝謙上皇により実現しなかった)。また官位を唐風の 名称に改めたり、鋳銭と出挙の権利や私印を用いる許可も与えた。天平宝字4年(760年)、仲麻呂を皇室外では初の太政大臣に任じた。同年、光明皇太后が崩御するが、仲麻 呂は淳仁天皇と上皇を盾に平城宮の改築を実施し、翌天平宝字5年(761年)淳仁天皇と上皇は小治田宮や保良宮に行幸して保良宮を「北宮」とした。 ところが、保良宮滞在中に病みがちとなった孝謙上皇は看病していた道鏡を寵愛するようになり、仲麻呂の進言により淳仁天皇がこれを諫めたところ上皇は烈火のごとく激怒 し天皇は上皇と対立するようになっていく。天平宝字6年6月3日(762年6月28日)、孝謙上皇は再び天皇大権を掌握することを目的に、「今の帝は常の祀りと小事を行え、国家 の大事と賞罰は朕が行う」と宣告した。この宣告によって、政治権力が孝謙上皇のもとに移ったとする見解と、御璽を保持しつづけていた淳仁天皇が依然と権能を発揮してい たとする見解がある。 「追放・最期」 天平宝字8年(764年)9月、上皇が山村王に命じて天皇が居住する中宮院にあった駅鈴と御璽を接収したことを契機に藤原仲麻呂の乱が発生、天皇はこれに加担しなかったもの の仲麻呂の乱が失敗に終り天皇は最大の後見人を失った。乱に加わらなかった理由については、既に上皇側に拘束されていたからだとも、仲麻呂を見限って上皇側との和解を 探っていたからだとも言われている(仲麻呂は天皇を連れ出せなかった為、やむなく塩焼王を新天皇に擁立することを企てた)。 乱の翌月、上皇の軍によって中宮院を包囲され、そこで上皇より「仲麻呂と関係が深かったこと」を理由に廃位を宣告され、5日後の天平宝字8年10月14日(764年11月11日)、 親王の待遇をもって淡路国に流される。淳仁天皇は廃位、太上天皇は追号されず、上皇は重祚して称徳天皇となった。 だが、淡路の先帝のもとに通う官人らも多くおり、また都でも先帝の復帰(重祚)を計る勢力が残っていた。このような政治動向に危機感をもった称徳天皇は、翌天平神護元年 (765年)2月に現地の国守である佐伯助らに警戒の強化を命じた。この年の10月、廃帝は逃亡を図るが捕まり、翌日に院中で薨去した。公式には病死によると伝えられているが、 実際には暗殺されたと推定され、大喪儀が行われたことを示す記録も存在していない。敵対した称徳天皇の意向により長らく天皇の一人と認められず、廃帝または淡路廃帝と呼 ばれていたが、『新唐書』日本伝では「大炊」、『宋史』日本伝では「天炊天皇」と記されて歴代に加えられている。(Wikipediaより)
古事記・日本書紀に載る天皇の陵 41箇所 【 記・紀に載る天皇の陵と それに関連する遺跡 】 ←クリック
【 系 図 】
渦潮観光船乗らなかった(3500円/人は高価い)
昼食「天羽商店」で海鮮丼 / 人形浄瑠璃の淡路人形座
2025/08/31 13:43:26
ココ 子ども遊園地 結局中には入らず
傍にあった道の駅の店内へ
涼しいく休憩がてら 生ワカメを買う
【 祭 神 】 両神は日本神話の国産み・神産みに登場する。 伊弉諾尊(いざなぎのみこと) 伊弉冉尊(いざなみのみこと) 【 創 建 】 『日本書紀』・『古事記』には、国産み・神産みを終えた伊弉諾尊が、最初に生んだ淡路島多賀の地の幽宮に鎮まったとあり、 当社の起源とされる。 伊弉諾尊の幽宮と伝わる場所は、他に滋賀県の多賀大社があるが、これは『古事記』の真福寺本の「故 其伊耶那岐大神者坐淡海之多賀也。(いざなぎのおおかみは あふみのたがに ましますなり)」との記述による。 ただし、多賀大社の祭神は南北朝時代の頃までは伊弉諾尊ではなかったことが判明しており『古事記』の記述と多賀大社を結び つけることはできない。 『古事記』では「近江」は「近淡海」とするのが常で、同じ『古事記』でも真福寺本以外の多くの写本が「故其伊耶那岐大神者 坐淡路之多賀也。」になっており、その他の諸々の理由から、学界でも「淡海」でなく「淡路」を支持する説が有力である。 なお、『日本書紀』では一貫して「淡路」と記され、「近江」に該当する名はない。(Wikipediaより)
ココのジェラードが目的で・・・通り道に「伊弉諾神宮」があったので参拝
店内はお線香を販売している いい香りが漂う